JICEの部屋(コラム)
立ち向かうべき本当の問題
掲載日時:2014/05/07
地方分権議論は、すでに20年にもわたって人口に膾炙してきた。道州制も議論が始まって相当の時間が経過しているし、最近では大阪都構想も提起され、いろい
ろと議論されている。新潟では州議論が行われているし、民主党政権下では、府県の連合体である広域連合への国の出先機関の移管議論が、多くの市町村長の反対
があるにもかかわらず進められた。平成の大合併が大規模に実施されたのも記憶に新しい。
これらは換言すれば、すべて「入れ物」論議であり、つまり行政単位の大きさの議論である。しかし、「何を実現し、どんな弊害を除去するために、どのくらい
の大きさの行政範囲が必要か」という先行的に絶対に必要な議論が見当たらないのである。
入れ物の大きささえ変えれば何とかうまくいくのではないかといった検証のないムードが議論を支配している。たとえば道州議論では、それは国家を地域分割す
ることなのか、それとも府県をまとめて束ねることなのか、という本質議論すら十分ではない。にもかかわらず、区割り議論が先行するなどして、本来の制度議論
に混乱が生じている。
分権論の背景には「地域のことは地域が決めるのが絶対正義である」という「自己決定至上主義」とでもいうべき感覚があると述べたことがある。この至上主義
を認めると、日本に一つだけ必要となる迷惑施設を国家の意思として設置できなくなることが論理的帰結となるが、その解決方法が浮かんでこない。
入れ物論議とは議論の場の手法論に過ぎず、要は「何を問題としてとらえ何を解決すべきなのか」ということが肝心なのである。「容器に盛るべきもの」の議論
を避けるために、熱心に「容器論」をしているのではないかとすら感じるのだ。
平成の大合併では、現在では多くの地域がその後遺症に苦しんでいる。合併に当たって交付税の優遇措置という飴がぶら下げられ、とにもかくにも合併促進が正
義であるとして突き進んだ。その際、地域の歴史的な成り立ちや、人々が概念的に抱いている地域アイデンティティの範囲や大きさ、自然災害の可能性やその種類
や大きさの想定に基づく態勢の組み方やあるべき規模が議論されることもなく、地域対立のもとともなりかねない河川の「上下流や左右岸」概念などが十分に考慮
されないままだったのだ。
そのため、合併促進のための優遇措置の効果が薄くなってきた最近になって、地域間のいろんな対立や矛盾が吹き出し始めたのである。「これでは合併などしな
ければよかった」と多くの首長が嘆く始末なのである。やはり、行政単位の大きさは、行政経費の節減優先で決まるものではなかったのである。
議会や役場の経費にムダがあるというのなら、それを国家単位でいえば、トンデモ級の極端な話だが、わが国はどこかの国の1州になるか国連の信託統治領にでも
なれば、経費は激減できるし機構もほとんど不用になる。しかし、それでは日本という歴史と伝統ある国家が世界から消えてしまう。この日本を地球から消滅させ
たくなければ、その運営経費はわれわれ日本人が覚悟して負担しなければならないのは当然のことなのである。
平成の大合併を経て伊豆半島には伊豆市と伊豆の国市が生まれ、伝統の修善寺町が消えてしまった。名古屋の北には、北名古屋市ができ西には名西市が誕生した
。栃木には県域全体の旧名でもある下野市が成立した。しかし、これらのネーミングが後世の批判に耐えられる価値を持つものなのかについては、かなり疑問のあ
るところだ。
深い議論が必要なのは、こんなことではないのではないか。思いつくまま順不同に示しても、まず、教育の問題。親が幼児を殺すなど、崩壊しつつある家庭教育
を社会がどのようにサポートしていくのか。教育委員会制度はもたれ合いの無責任制度に堕落しているが、これをどう変えていくのか。大学の3年生や大学院の1年
生が、勉強や研究もせず就活に走り回らなければならない状況をいかに打開していくのか。先進国のなかで唯一わが国だけがエイズ患者が増え続け、梅毒患者も急
増したが、これをどう解決するのか。
グローバル時代だというのに、海外留学したのでは国内就職に不利だと思わせないようにするには何を変えればいいのか。OECD参加国のうち、教育分野には最低
の公費支出しかしていない現状はこれでいいのか。保育のための待機児童問題と高齢者の社会参加がなぜ組み合わせられないのか。子供を産み育てやすい環境をど
う整備していくのか。女性の出産後の職場復帰に際してキャリアの格を保つ仕組みをどのように構築していくのか。
社会保障では生活保護世帯の急増といった費用の爆発をいかに制御するのか。国民の稼ぎに応じた社会保障への配分しかできないことをどう社会合意していくの
か。農林漁業問題では魅力ある産業として将来の担い手をどう確保していくのか。過去数百年以来最高水準となった森林資源を、どのようにリサイクリックに運営
して次世代に継いでいくのか。
企業の統治制度問題について。不祥事への過剰反応などから導入した過度なコンプライアンスによる経営者の自信と意欲の喪失をいかに回復するのか。
東京首都圏集中。総人口が減少に転じたにもかかわらず、いまだに首都圏集中が進む状況をどう解決するのか。首都機能移転論が失敗に終わった今、分散化の手
順をどう考えるのか。「未曾有級」の直下地震、トラフ型地震、高潮、河川氾濫などの危険がある首都圏なのに、世界の先進国なかで唯一最大都市圏への人口集中
を継続している。これはわが国にとっての「最大の危機」だが、オリンピックを機会にどう目途をつけるのか。
地方都市の壊死。これは、元岩手県知事の増田寛也氏の表現だが、子供を産む可能性のある20〜40歳の女性人口が、今後30年間で半減してしまう自治体が全国で
900にもなる。そうした自治体が県内自治体数の半分を超えてしまう県が、青森、秋田、岩手、山形、島根などに及ぶという。実効ある政策を早急に立案するために
どうするのか。
人口増時代の仕組みを人口減に合った政策にどう変換していくのか。所有から利用への価値観の転換をいかに図るかなど、入れ物の大小を議論している場合では
ないのである。
ろと議論されている。新潟では州議論が行われているし、民主党政権下では、府県の連合体である広域連合への国の出先機関の移管議論が、多くの市町村長の反対
があるにもかかわらず進められた。平成の大合併が大規模に実施されたのも記憶に新しい。
これらは換言すれば、すべて「入れ物」論議であり、つまり行政単位の大きさの議論である。しかし、「何を実現し、どんな弊害を除去するために、どのくらい
の大きさの行政範囲が必要か」という先行的に絶対に必要な議論が見当たらないのである。
入れ物の大きささえ変えれば何とかうまくいくのではないかといった検証のないムードが議論を支配している。たとえば道州議論では、それは国家を地域分割す
ることなのか、それとも府県をまとめて束ねることなのか、という本質議論すら十分ではない。にもかかわらず、区割り議論が先行するなどして、本来の制度議論
に混乱が生じている。
分権論の背景には「地域のことは地域が決めるのが絶対正義である」という「自己決定至上主義」とでもいうべき感覚があると述べたことがある。この至上主義
を認めると、日本に一つだけ必要となる迷惑施設を国家の意思として設置できなくなることが論理的帰結となるが、その解決方法が浮かんでこない。
入れ物論議とは議論の場の手法論に過ぎず、要は「何を問題としてとらえ何を解決すべきなのか」ということが肝心なのである。「容器に盛るべきもの」の議論
を避けるために、熱心に「容器論」をしているのではないかとすら感じるのだ。
平成の大合併では、現在では多くの地域がその後遺症に苦しんでいる。合併に当たって交付税の優遇措置という飴がぶら下げられ、とにもかくにも合併促進が正
義であるとして突き進んだ。その際、地域の歴史的な成り立ちや、人々が概念的に抱いている地域アイデンティティの範囲や大きさ、自然災害の可能性やその種類
や大きさの想定に基づく態勢の組み方やあるべき規模が議論されることもなく、地域対立のもとともなりかねない河川の「上下流や左右岸」概念などが十分に考慮
されないままだったのだ。
そのため、合併促進のための優遇措置の効果が薄くなってきた最近になって、地域間のいろんな対立や矛盾が吹き出し始めたのである。「これでは合併などしな
ければよかった」と多くの首長が嘆く始末なのである。やはり、行政単位の大きさは、行政経費の節減優先で決まるものではなかったのである。
議会や役場の経費にムダがあるというのなら、それを国家単位でいえば、トンデモ級の極端な話だが、わが国はどこかの国の1州になるか国連の信託統治領にでも
なれば、経費は激減できるし機構もほとんど不用になる。しかし、それでは日本という歴史と伝統ある国家が世界から消えてしまう。この日本を地球から消滅させ
たくなければ、その運営経費はわれわれ日本人が覚悟して負担しなければならないのは当然のことなのである。
平成の大合併を経て伊豆半島には伊豆市と伊豆の国市が生まれ、伝統の修善寺町が消えてしまった。名古屋の北には、北名古屋市ができ西には名西市が誕生した
。栃木には県域全体の旧名でもある下野市が成立した。しかし、これらのネーミングが後世の批判に耐えられる価値を持つものなのかについては、かなり疑問のあ
るところだ。
深い議論が必要なのは、こんなことではないのではないか。思いつくまま順不同に示しても、まず、教育の問題。親が幼児を殺すなど、崩壊しつつある家庭教育
を社会がどのようにサポートしていくのか。教育委員会制度はもたれ合いの無責任制度に堕落しているが、これをどう変えていくのか。大学の3年生や大学院の1年
生が、勉強や研究もせず就活に走り回らなければならない状況をいかに打開していくのか。先進国のなかで唯一わが国だけがエイズ患者が増え続け、梅毒患者も急
増したが、これをどう解決するのか。
グローバル時代だというのに、海外留学したのでは国内就職に不利だと思わせないようにするには何を変えればいいのか。OECD参加国のうち、教育分野には最低
の公費支出しかしていない現状はこれでいいのか。保育のための待機児童問題と高齢者の社会参加がなぜ組み合わせられないのか。子供を産み育てやすい環境をど
う整備していくのか。女性の出産後の職場復帰に際してキャリアの格を保つ仕組みをどのように構築していくのか。
社会保障では生活保護世帯の急増といった費用の爆発をいかに制御するのか。国民の稼ぎに応じた社会保障への配分しかできないことをどう社会合意していくの
か。農林漁業問題では魅力ある産業として将来の担い手をどう確保していくのか。過去数百年以来最高水準となった森林資源を、どのようにリサイクリックに運営
して次世代に継いでいくのか。
企業の統治制度問題について。不祥事への過剰反応などから導入した過度なコンプライアンスによる経営者の自信と意欲の喪失をいかに回復するのか。
東京首都圏集中。総人口が減少に転じたにもかかわらず、いまだに首都圏集中が進む状況をどう解決するのか。首都機能移転論が失敗に終わった今、分散化の手
順をどう考えるのか。「未曾有級」の直下地震、トラフ型地震、高潮、河川氾濫などの危険がある首都圏なのに、世界の先進国なかで唯一最大都市圏への人口集中
を継続している。これはわが国にとっての「最大の危機」だが、オリンピックを機会にどう目途をつけるのか。
地方都市の壊死。これは、元岩手県知事の増田寛也氏の表現だが、子供を産む可能性のある20〜40歳の女性人口が、今後30年間で半減してしまう自治体が全国で
900にもなる。そうした自治体が県内自治体数の半分を超えてしまう県が、青森、秋田、岩手、山形、島根などに及ぶという。実効ある政策を早急に立案するために
どうするのか。
人口増時代の仕組みを人口減に合った政策にどう変換していくのか。所有から利用への価値観の転換をいかに図るかなど、入れ物の大小を議論している場合では
ないのである。