JICEの部屋(コラム)
三文字略語
掲載日時:2014/08/05
近年、適当な日本語訳を設けないままのアルファベット略語が氾濫している。特に三文字略語が多い。これには問題がいくつかあるが、第一の問題はこの多用が隠語として機能しており、内輪の世界と外とを隔てる役割を果たしていることである。
たとえば、「企業などの事業継続計画」と言わずにBCPと言うだけでその解説をしようともせず、「これを知らないようなら君とは議論できない」という姿勢である。「君の会社のBCPは問題が多い」というのがサラリーマン同士ならまだ意味が分かり合えるとしても、一般の主婦だとこれを聞いても理解できない人が多いと思われる。
これは、娑婆の言葉をわざわざひっくり返すなどして部外者にはわからない用語使いの世界をつくることで、身内社会が閉ざされた社会であることを常に意識するシステムとした「やくざ」の世界と何ら変わらない。したがって略語使いには一定の配慮が必要なのに、その道の人以外には不親切な社会になっている。メディアを含めて、この国は数多い小さな「やくざ社会」をつくるのに熱心だと思わざるを得ない。
氾濫ぶりを少し概観してみよう。
・BCM=統合的な事業継続のための仕組み ・CSR=企業の社会的責任
・GIS=地理情報システム ・GPU=グラフィックス専用のCPU(コンピュータの中心装置)
・IRR=内部収益率 ・LCA=ライフサイクルアセスメント
・LCC=ライフサイクルコスト
(いまでは、ローコストキャリアの略語としてよく使われる) ・LED=発光ダイオード
・LTE=携帯電話の通信規格で第四世代もので4Gとして認められた ・ITU=国際電気通信連合
・NPO=非営利組織 ・ODA=政府開発援助
・SMS=ショートメッセージサービス ・TOB=株式公開買い付け
・PKO=平和維持活動 ・PFI=公共施設を民間の資金や技術で行う方法
・CEO=最高経営責任者 ・COO=最高執行責任者
・CFO=最高財務責任者
この略語の解説にも三文字略語を使わざるを得ないほどに、三文字略語が氾濫している様子がわかる。これらの略語を振り回されると知りませんと言えず、聞くに聞けずで終わってしまう危険がある。コミュニケーションが成り立ってもいないのに、成立したかのように振る舞って終わる恐れがあるのだ。
最近購入したスマートフォンには、Eメールの操作ボタンとは別に、SMSというボタンが付いていた。携帯電話番号に短いメールを送ることができる操作キーだとはわかったのだが、何の省略だかなかなかわからなかった。ショートメッセージサービスの頭文字だったとわかったのは最近のことだ。やはり略語の氾濫は不親切だと思わざるを得ない。
実は、これらの略語は並列にあるものではない。LEDやODAはまだいいというのは、これらは単純な略語の域を出ていないからである。それが、単に組織名だとか条約名であるうちは、不親切ではあるけれども「略語」の範疇と割り切ることもできる。
問題は日本にはない概念の導入となるにも関わらず、アルファベットの略語を用いたままで、日本の概念として明確な定義を当てようともせず平然としていることである。これはもはや単なる略語の範疇と考えてはならないものなのだ。
典型の1つが経営者に用いるCEOなどの略語群である。わが国の企業にはもともと、社長や経営者はいたけれども「最高経営責任者」などという概念はなかったのだから、この略語の使用は概念の受容を要求しているのである。
ある大企業経営者がアメリカ流にかぶれたのか、唐突に自らをCEOなどと言い始め、メディアが物珍しさもあってずいぶんよいしょ記事を書いたのだが、その企業は何代も後の経営陣になってもいまだに経営戦略が固まらず、大幅赤字を垂れ流し続けている。
日本の企業には、人間関係の長期的信頼を何より大切に考え、企業利益を短気で捉えない体質があり、それは日本人の本性になじんでいた。また、従業員なのにあたかも経営に参加しているかのような目線で物事を考える仕組みや習慣があり、それが一人一人の社員のモチベーションや上昇意欲を生んで企業業績に寄与してきた。
砂粒のようなパラパラの人間関係の社会にあり、個人ごとに明確化された責任範囲が示されないと力量が発揮できないアメリカ人とは、まったく異なる人間の世界がこの国にはあるにもかかわらず、そのような人間存在の本質に迫る思考も配慮もないまま、アメリカ流を持ち込んでうまくいくと考える方がどうかしているのだ。
CEOなどと言いだしてからこの国はおかしくなり始めたのである。国立国語研究所の飛田良文氏は、明治時代には西洋語の意味と日本語の意味が1対1に対応しない場合には、新語を工夫して造語したと次のように述べている。
『日本には概念が存在しないために新しく造語した「個人」「哲学」などという新造語。中国で欧米人宣教師などが中国語に訳した語を借用した「冒険」「恋愛」などの借用語。日本古来の類似語に新しい意味を付加して転用した「世紀」「常識」などの転用語。』
このような努力をした明治の先輩に比べ、われわれはずいぶん怠慢だと考える。用語がないということは、そのような発想そのものを持たなかったということであり、したがってその導入には慎重な用意が必要に決まっているのだ。
Identityという言葉を持たなかったということは、自己を他人と厳しく峻別して認識するという「考え=概念」そのものがなかったということなのだ。だから当然のことだけれども、「アイデンティティ」なる言葉を持ち込みさえすれば、その概念を獲得できるということになどなるわけがない。
ある概念の獲得には、それぞれの民族の歴史や経験が不可避的に作用している。規制緩和で競争の導入だと喧しいが、Competitionの訳語として福沢論吉が「競争」と当てたら、幕府のお役人から「争う」とは何事だと怒られたという国柄なのだ。
裸のCEOが跋扈しているようでは、将来はかなり厳しいのではないかと危惧している。
たとえば、「企業などの事業継続計画」と言わずにBCPと言うだけでその解説をしようともせず、「これを知らないようなら君とは議論できない」という姿勢である。「君の会社のBCPは問題が多い」というのがサラリーマン同士ならまだ意味が分かり合えるとしても、一般の主婦だとこれを聞いても理解できない人が多いと思われる。
これは、娑婆の言葉をわざわざひっくり返すなどして部外者にはわからない用語使いの世界をつくることで、身内社会が閉ざされた社会であることを常に意識するシステムとした「やくざ」の世界と何ら変わらない。したがって略語使いには一定の配慮が必要なのに、その道の人以外には不親切な社会になっている。メディアを含めて、この国は数多い小さな「やくざ社会」をつくるのに熱心だと思わざるを得ない。
氾濫ぶりを少し概観してみよう。
・BCM=統合的な事業継続のための仕組み ・CSR=企業の社会的責任
・GIS=地理情報システム ・GPU=グラフィックス専用のCPU(コンピュータの中心装置)
・IRR=内部収益率 ・LCA=ライフサイクルアセスメント
・LCC=ライフサイクルコスト
(いまでは、ローコストキャリアの略語としてよく使われる) ・LED=発光ダイオード
・LTE=携帯電話の通信規格で第四世代もので4Gとして認められた ・ITU=国際電気通信連合
・NPO=非営利組織 ・ODA=政府開発援助
・SMS=ショートメッセージサービス ・TOB=株式公開買い付け
・PKO=平和維持活動 ・PFI=公共施設を民間の資金や技術で行う方法
・CEO=最高経営責任者 ・COO=最高執行責任者
・CFO=最高財務責任者
この略語の解説にも三文字略語を使わざるを得ないほどに、三文字略語が氾濫している様子がわかる。これらの略語を振り回されると知りませんと言えず、聞くに聞けずで終わってしまう危険がある。コミュニケーションが成り立ってもいないのに、成立したかのように振る舞って終わる恐れがあるのだ。
最近購入したスマートフォンには、Eメールの操作ボタンとは別に、SMSというボタンが付いていた。携帯電話番号に短いメールを送ることができる操作キーだとはわかったのだが、何の省略だかなかなかわからなかった。ショートメッセージサービスの頭文字だったとわかったのは最近のことだ。やはり略語の氾濫は不親切だと思わざるを得ない。
実は、これらの略語は並列にあるものではない。LEDやODAはまだいいというのは、これらは単純な略語の域を出ていないからである。それが、単に組織名だとか条約名であるうちは、不親切ではあるけれども「略語」の範疇と割り切ることもできる。
問題は日本にはない概念の導入となるにも関わらず、アルファベットの略語を用いたままで、日本の概念として明確な定義を当てようともせず平然としていることである。これはもはや単なる略語の範疇と考えてはならないものなのだ。
典型の1つが経営者に用いるCEOなどの略語群である。わが国の企業にはもともと、社長や経営者はいたけれども「最高経営責任者」などという概念はなかったのだから、この略語の使用は概念の受容を要求しているのである。
ある大企業経営者がアメリカ流にかぶれたのか、唐突に自らをCEOなどと言い始め、メディアが物珍しさもあってずいぶんよいしょ記事を書いたのだが、その企業は何代も後の経営陣になってもいまだに経営戦略が固まらず、大幅赤字を垂れ流し続けている。
日本の企業には、人間関係の長期的信頼を何より大切に考え、企業利益を短気で捉えない体質があり、それは日本人の本性になじんでいた。また、従業員なのにあたかも経営に参加しているかのような目線で物事を考える仕組みや習慣があり、それが一人一人の社員のモチベーションや上昇意欲を生んで企業業績に寄与してきた。
砂粒のようなパラパラの人間関係の社会にあり、個人ごとに明確化された責任範囲が示されないと力量が発揮できないアメリカ人とは、まったく異なる人間の世界がこの国にはあるにもかかわらず、そのような人間存在の本質に迫る思考も配慮もないまま、アメリカ流を持ち込んでうまくいくと考える方がどうかしているのだ。
CEOなどと言いだしてからこの国はおかしくなり始めたのである。国立国語研究所の飛田良文氏は、明治時代には西洋語の意味と日本語の意味が1対1に対応しない場合には、新語を工夫して造語したと次のように述べている。
『日本には概念が存在しないために新しく造語した「個人」「哲学」などという新造語。中国で欧米人宣教師などが中国語に訳した語を借用した「冒険」「恋愛」などの借用語。日本古来の類似語に新しい意味を付加して転用した「世紀」「常識」などの転用語。』
このような努力をした明治の先輩に比べ、われわれはずいぶん怠慢だと考える。用語がないということは、そのような発想そのものを持たなかったということであり、したがってその導入には慎重な用意が必要に決まっているのだ。
Identityという言葉を持たなかったということは、自己を他人と厳しく峻別して認識するという「考え=概念」そのものがなかったということなのだ。だから当然のことだけれども、「アイデンティティ」なる言葉を持ち込みさえすれば、その概念を獲得できるということになどなるわけがない。
ある概念の獲得には、それぞれの民族の歴史や経験が不可避的に作用している。規制緩和で競争の導入だと喧しいが、Competitionの訳語として福沢論吉が「競争」と当てたら、幕府のお役人から「争う」とは何事だと怒られたという国柄なのだ。
裸のCEOが跋扈しているようでは、将来はかなり厳しいのではないかと危惧している。