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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

日本の禍機

掲載日時:2017/04/11

国土政策研究所長 大石 久和

 現在の日本の状況が、戦前1931(昭和6)年の満州事変の頃に似てきたような気がしてならない。もちろん、筆者がその時代の空気を肌感覚で知っているはずもないが、全体主義的な一部議論の切り捨て方や、財政といえば全メディアが完全に再建至上主義に向かって走っているといった傾向が戦前と似ていると感じるのである。

 満州事変までは軍部に批判的だったメディアも、この事変以降は「どの新聞も陸軍の熱心な応援団に変身(半藤一利)」して、後はブレーキのないまま開戦から敗戦までと突っ込んでいったのだった。

 国民が一定の方向に向くように刷り込まれている状況はきわめて危険である。求める価値の多様化を押しつぶして一本化させ、その結果、暴走が始まるからである。

 今の日本でのインフラ整備論をめぐる環境によく似ている。世界中のほとんどの首脳がインフラ整備の重要性を説き、それが経済成長と一国の競争力の基本だと述べているのに、わが政治もマスコミも完全に無視している。

 さすがに、トランプ大統領演説の報道は省略できず、「1兆ドルのインフラ投資」は、紹介されるけれど、アメリカにはるかに劣る「交通インフラ=道路、港湾、空港など」や「防災インフラ=堤防、ダムなど」の整備水準を点検しようとする記事はない。また、デフレに沈む日本経済には内需喚起が不可欠なのだが、その指摘もほとんどない状況だ。

 財政再建至上主義の旗印のもとで、わが国はこの20年間「構造改革」などという呪文を唱えてきたのだが、その結果は無残にも世界で唯一経済成長しない国となって国民の貧困化と日本の国際的地位の低下が顕著に進んだだけだった。

 そこで歴史に学んでみたいのである。

 ここで紹介したいのは、満州事変の30年近くも前に日米が開戦に至るであろう危険を察知し、それを警告した先覚者・朝河貫一である。朝河貫一は、1873(明治6)年福島県二本松の出身で、1895(明治28)年東京専門学校を卒業、同年アメリカ・ダートマス大学入学、卒業後1902年イェール大学大学院を修了、同大学講師となった。その後の1937(昭和12)年に、日本人初のイェール大学教授となった。

 1894(明治27)年7月〜1895年3月にかけて戦われた日清戦争の後、ロシアなどからの露骨な干渉やロシアによる満州侵略などがあり、わが国では「臥薪嘗胆」を合い言葉に国民は軍拡のための負担に耐え、いつかロシアを打つべしとの気分がわき起こってきた。

 日露戦争が始まると、朝河貫一は1904(明治37)年に、「日露紛争…その諸原因とその諸争点」でロシアの満州侵略の不当性と日露戦争の日本の姿勢を説明し、日本がロシアを阻止する正当性を主張した。この論文は、日本が奇跡的に勝利した後に、ルーズベルト大統領の仲介によりポーツマス条約を成立させる要因となったと言われる。

 日米開戦に至る「全体的な萌芽」は日露戦争にあったと指摘されるように、わが国は国力の総力をあげた戦いにギリギリのところで勝利して浮かれ始め、日露戦争後、国の運営方針を誤っていった。それをアメリカから冷静に見ていた朝河貫一は、戦争からわずか後の1909(明治42)年「日本の禍機」を著わして、祖国に警告したのだった。

 彼は、日露戦争後の満州における日本の行動を、政治、軍事、経済面で解析してデータで示し、ルーズベルト大統領の政策とアメリカの国民性や太平洋をめぐる国際政治の展開等を解説し、満州での日本の行動に正当性がないことを指摘して政策転換を訴えた。

 さらに、日本は満州での行動をすぐに正さない限り国際社会での信用を失い、将来的には中国の恨みを買い、必ずアメリカと衝突して負けるであろう、と看破したのだった。

 この時国内にこれだけの先覚者が存在し、社会的な影響力を持てていたらと嘆かざるを得ない。朝河貫一は、日露戦争直後にすでにアメリカとの衝突を予言していたのだ。

 「月刊日本」の2017・2号で、菅沼光弘氏は次のように述べている。

 『日露戦争講和のためのポーツマス条約会議最中の1905年8月末、アメリカの鉄道王エドワード・ハリマンが来日し、桂太郎首相と会談し、日露戦争で日本が獲得した南満州鉄道とそれに付随する鉱山などの利権の半分をハリマンに譲渡し、これを日米で共同経営しようともちかけてきました。

 (この背景には次のようなことがある。筆者注)日露戦争の戦費調達のために、アメリカの銀行家ジェイコブ・シフから借款を受けていたことです。ハリマンは、この借款を全額肩代わりして支払うことを提案しました。…こうして10月12日に「桂・ハリマン覚書」が交わされました。

 ところが、10月16日にポーツマスから帰朝した小村寿太郎外相は、覚書に強硬に反対、「破棄しなければ外務大臣を辞任する」とまで桂首相に迫って、覚書を破棄させてしまったのです。』

 これもまた残念な「日本の禍機」だったと慨嘆せざるを得ない。もし満州をアメリカと共同経営できておれば、多分世界史が相当大きく変わったに違いない。それは当時の日本人が次の朝河貫一の感覚と姿勢を持てておればの話であるのだが…。

 「そもそも将来の国運の大半は、わが国民が一方には今後東洋の最大問題たるべき清国に対し、他方には今後世界の最高強国たるべき米国に対する関係によりて定まらん。而して日清、日米の関係を決定するものは、主として日本国民の清国と米国に対する知識、感情のいかんにあらん。ゆえに最後最重要の問題のかかわるところは全然日本国民の態度にあり。」平成の今、まさにわが国の運命は、中国とアメリカとの関係を如何に結ぶかのなかに存在している。日露戦争当時の朝河貫一の予言通りなのである。

 ところで日露戦争では、世論に阿った東大七教授事件というのがあった。戸水寛人教授ら7人が、ロシアから30億円の賠償金を取り沿海州などを割譲させよと政府に迫ったのである。権威などというものは、いつの世にも信用できないと知るべきなのだ。