• JICEについて
  • 調査報告・研究成果
  • 助成・表彰・審査制度
  • 技術資料・ソフトウェア
  • 国土を知る

技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

家庭力の喪失・キラキラネーム再考

掲載日時:2016/12/12

国土政策研究所長 大石 久和

 最近の産経新聞のコラムに、大手都市銀行の採用担当者が「最近、採用試験を受ける学生で名前が読めない子が増えてきた。ルビがないとどうしようもない」と話すという記事が載っていた。

 また、このコラムでは、最近大きく報道されたある少年事件の関係者たちもそろって「難読名」だったといい、「やはり極端な名前は劣等感すら招きかねない。命名権の"乱用"とも言えるだろう」と述べている。

 採用担当者は、キラキラネームが採否に影響するかどうかは「一般的には関係ない」と言いながらも「ただ、親の顔が見たくなることは間違いない」と述べたと紹介している。

 どう説明しようが、読めない名前は他者の拒絶を意昧している。他人に正しく読んでもらう必要がないというのだから、他者との関係否定と言うべきものだ。これは、このネーミングを拒否できない子どもに対する親による人権侵害と言えるものだろう。

 親は、やがて子どもは親から離れ独り立ちして生きていかなければならないことを、子どもの出生時から自覚しておかなければならない。そのときに、ハンディキャップになるものはできるだけなくすようにするのは親の務めなのである。

 まして、この子は○○家の子どもだけれども、日本の将来を担う人でもあり、世界を股にかけて活躍し世界の運命を背負う人となるかも知れないのだ。つまり、どの子も○○家のなかに閉じ込んでおける存在ではないということである。

 キラキラネームについてのネットを見ていると、次のような名付け親であるお母さんからの新聞への投書が紹介されていた。

 「私の子の名前も『○○』(実名は割愛)で、ほとんどの人は読めません。けれども、そのお陰で子供たちは先生方から『なんて読むの?』と聞かれ、その度に自分の名前を張り切って答えているそうです。『パパとママがつけてくれたの!』と誇らしげに言って。世界でたった1つの宝物(子供)に世界でたった1つの名前を付けたくて、懸命に本を何冊も読んで考えました。『皆と同じ、皆がするのが正しい』のではなく、『自分の気持ちを大切にしていくことが大事』、そんな気持ちが子供たちの名前に託されているんだと思います。祈りも希望もたくさん込められています。人生の先輩、先生方、子供たちに『なんて読むの?』と聞いてください。誇らしげな顔が返ってくると思います。」

 文章からもよく考えているお母さんからの投書であることがわかる。わが子の成長を願う親の気持ちも伝わってくる文章なのだが、しかし、これは「人は個性的でなければならない」との誤った戦後教育の脅迫に翻弄されたとんでもない勘違いなのである。人間とは、名前などに関係なく本来的に個性的な存在なのだ。

 「なんて読むの?」と、いちいち相手に質問させるという負担をかけなければ、このお母さんの願いは届けられないのか。相手に負担をかけなければならないうえに、相手に負担をかけていることを申し訳ないと思わなければならないネーミングが、いいものだと言えるのか。

 小学校や中学校くらいまでは、ほほえましく聞いてくれるかもしれない。しかし、社会人になると転勤するたびに新しい部署で読み方を伝達しなければならないのだ。取引先との交渉でも、必ず読み方を相手に教えなければならない。地域や趣味の活動をする場合も同様だ。そして、年齢が60、70になっても誰も正しい読み方をわかってくれないのだ。

 先の産経新聞でも、難読名の子どもが「毎度説明しなければならず、うんざりしています」と肩を落としていたという。

 これは、かなり過酷な生存条件を子供に与えたと言うことなのだ。命名権は親の責任領域だが、いい名前を付けてもらうのは子供の権利でもある。「悪魔ちゃん事件」は騒ぎだけで終わったが、この事件は親権者による無抵抗な子供の生存権剥奪とでも言うべき暴力だったと考える。その後の生き方を窮屈にするわが子の名前を悪魔などと名付ける権利はどの親にもあるはずがないが、それに近い行為だとなぜ気付かないのか。

 実は初見で読めないということは、危険なことでもある。事故や事件などで名前を聞く時間がなければ、相手は勝手読みした名前の読み方で登録してしまう。後で親から聞いた最初とは違う読み方では別人登録になってしまうのだ。1人の人間が2つの認証コードを持ってしまうのである。現に救急医療の現場では、初見では読むことができない名前に、このような事情から難儀することが現実になっている。

 これは、若い両親が「個性の強要」とでもいうべき、個性がなければ人間でないかのような教育に圧迫されてきた結果なのである。人はいかなる名前を持とうがみんな個性的な存在なのに、奇妙な読み方のネーミングこそが個性の発露だとの大変な勘違いがあるのだ。

 「北野武」というありふれた名前のタレントが個性的でないのかを考えたいのである。

 その一方で、この国から「家庭における親の責任」とでもいうべきものが喪失していっている。箸にしてもペンにしても正しく持てる子供がほとんどいないくらいに減少している。正しい持ち方は力学的にも肉体的にも最も合理的な持ち方だから、ちょっとした配慮で身につくものなのだ。持ち始めのごく初期の段階で、少し注意してやれば身につくのにそれを怠っている。親の責任についての理解に大きな間違いがあるのだ。

 パリのオルセー美術館で彫像を写生していた学生は、一瞥したところ全員が正しくペンを持てていた。ボコ・ハラムに誘拐された少女たちも何とかペンが持てていた。このままでは、日本人だけが正しくペンも持てない民族になる危険がある。

 最近は「とにかく楽しい家庭でありたい」という主婦願望が強いという。(『普通の家族がいちばん怖い』岩村暢子・新潮文庫)しかし、この例でいえば簡単なしつけを放棄して、「注意する煩わしさ」と引き替えに親としての責任を果たしていないと言えるのだ。