• JICEについて
  • 調査報告・研究成果
  • 助成・表彰・審査制度
  • 技術資料・ソフトウェア
  • 国土を知る

技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

日本人の存在様式

掲載日時:2016/11/29

国土政策研究所長 大石 久和

 新自由主義経済学がこの国の経済学において主流化し、この20年間「小さな政府、緊縮財政、市場主義、規制緩和、自由化、民営化、グローバル化」と突き進んできた結果、デフレからの脱却もできなかったこともあって、残念なことに国民の所得は減少を続け貧困化がすすんでしまったという事実が残った。

 1995年に60万世帯を切るほどだった生活保護世帯数は、直近では162万を超える有様だが、この急増は高齢化だけでは説明がつかない。世帯所得を見ても1995年の平均が660万円だったものが、2014年には542万円と大きく減少している。

 世帯所得の分布を2014年のデータで見ると、100〜400万円程度の層が40%ものシェアを占めている。1995年にはこのあたりの所得層のシェアはもっと低く、高額所得層はもっとシェアが大きかったのだ。

 国内のデータを見ても、このように日本人は貧困化したのだが、海外の報告でも暗然とする結果が報告されている。OECDの「Economic Outlook 2013」によると、1995年を100としたときの名目賃金の推移は、アメリカ180.8、ユーロ149.3であるのに対して、日本は87.0と大きくダウンした。

 アメリカもユーロ圏内もかなり賃金上昇したが、わが国民は減少したのである。IMFが整理した「1人あたり名目GDP(USドル)」の推移で見ても、1995年には4万2500ドルで世界第3位だった日本は、2015年には3万2500ドルと0.76に減少し、世界の26番目に下落する有様だ。(但し、OECD・IMFともドルベース)

 この間、アメリカは2万8800ドルから5万5800ドルへと約2倍、イギリスも2万1300ドルから4万3800ドルへと2倍を超える上昇を遂げている。ドルベースで1人あたり名目GDPを下げた先進国はわが日本だけなのである。

 これを円高円安の問題だと片付ける向きもあるが、かなり無理がある。確かに、1995年は年平均で1ドル94.1円だったものが、2015年には121.0円だったから、円は約29%も切り下がっており、ドルベースで見ると減少するのは当然だ。

 しかし、これを計算に入れても、わが国での所得はほとんど伸びてこなかったことは明らかだし、ドル円の高安議論では、アメリカやイギリスの所得の伸びを説明できない。わが日本人は相対的に見てかなり貧困化したことは事実なのだ。

 その結果、町には100円ショップが満ちあふれ、派手なしつらえの安売り店が数多く繁華街に登場してきたが、最近では、これらの店舗展開が一層急激になっている。東京の赤坂で長年働く友人は、「かつては1000円持たなければ昼食を取れなかったが、最近では500円でもまかなえるところもある」と言う。価格を下げないと売れないのである。

 先日、テレビの飲食番組(テレビは品のない食事風景ばかりを放送している)で、香港でラーメンのようなものを食べたタレントが、「値が高い」と声を上げていたが、香港は1人あたり名目GDPで日本を超えたから、高いラーメンを食べることができるのだ。

 世界の先進国は豊かになっていったのに、われわれがひたすら貧困化の道を走っているのは、経済が成長できず、デフレからの脱却を図れずにいるということが原因である。

 なぜこんな状況が生まれたのかについてはいろいろな説明がなされているし、政府もこの状況からの脱却に向けて政策を打っているのだが、冒頭に述べたように新自由主義経済学が、日本人にはまったく不向きだったことが大きいと考える。

 「アメリカのようにやればうまく行く。やらない日本は遅れている」と叫んで改革、改革と言ってきたのだが、そのことに無理があった。経済とは価値の交換であるから、諸々について価値観がまったくといっていいほど異なる両者の経済システムをそろえることに無理があったと考えなければならないのだ。

 リオ・オリンピックの陸上400mリレーのように、個々人の記録の加算値では負けていても、4人が皆でバトンパスを工夫することによって、アメリカすら凌駕できるというのがわが日本人なのだ。仲間の合計値が大きいというのが日本人なのである。

 「1人ひとりの責任分界点を明確にすれば、そのことにたじろぐ日本人だが、顔見知り集団の責任となれば、お互いが欠点を補い合い長所を引き出しあって、個人の合計値を上回る力を発揮する日本人」に、「砂粒のような個人としての短期の業績評価を行えと強要した」のがアメリカ流の経済学だったのだ。

 少し考えてみたい。先に「おせっかいなヨーロッパ人」で示した事例だが、「世界の先進国のなかで、わが日本だけが主要道路や主要駅などの交通結節点に、点字ブロックを敷き詰めている事実」「他国には点字ブロックはほとんど皆無である事実」をどう見るのか。

 これを見ても、われわれと世界の人々とは考え方も感じ方も異なるとわかる。それでも人々の価値観の交換群で成立している経済も同じ方程式でやれるし、やるべきだと言うのだろうか。そんなことはあり得ないと考える方が素直で正しいのではないか。

 また、安全保障についても、尖閣に執拗に船舶を繰り出してくる中国に対して、「留学生の交流を増やして友好を図れ」というようなまるでピント外れの主張が一部のメディアに出ている。これも思い出してみたい。以前にも示したように「安全のために最も肝心な外部との接点となる住居のドアが外開きの国など日本以外に存在しない。」ことを。

 引きちぎられると簡単に開いてしまうドアに安全を委ねているような人々が、危機想定を必然とする安全保障を理解できていると言えるのだろうか(中国はもちろん内開き)。

 日本独特の「人称」の多さ、複雑さなどを考えても、どうもわれわれ日本人の「存在様式」は、ヨーロッパの人々などとは相当に異なると考えざるを得ない。死生観・歴史観・人間観などのそれぞれが独特なのであるが、それを理解しなければならないのは「世界の側ではなく、われわれ日本人の側」であることが、残念にもつらいところなのだ。

 しかし、この自覚なしに世界とつきあうことほど危険なことはないと考える。