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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

「一次元」の日本

掲載日時:2016/07/25

国土政策研究所長 大石 久和

 ECがEUになったとき、今後のヨーロッパにおけるインフラ整備をどのように考えていくかという議論が起こった。多方面の人材がシナリオアナリシスという手法を用いて、どのような考え方を優先して、ヨーロッパの国土造りを考えていこうかという議論を行ったのである。かなり昔の話だが、筆者たちはこの成果を翻訳して「21世紀ヨーロッパ国土づくりへの選択」と題した出版を行ったことがある。

 いくつか印象的なことがあったのだが、その一つはEUの中心部(ベルギー・フランス・ドイツあたり)と周辺地域との連絡性を高める交通インフラ政策を行うという方向性を明示していたことだった。

 いまEUの統一体としての性格は難民問題を契機に揺らいでいるが、発足当初は「EU各国は一つでなければならない」といった熱風のようなものが吹いていたのだった。そこで、高い生産性を誇る地域と周辺地域を円滑に結んで全体の成長を目指したのである。

 さらに今日の日本でも高速道路ネットワークについて問題となっているミッシングリンクの解消も唱えていた。これは、一つひとつの主権国家の判断だけでは実現する可能性の低い国境間の連結を行うことで、EU全体の交通の流れを改善するものだった。

 これをEUプロジェクトとしてEUが支援して実施していこうとするもので、当初はドーバー海峡トンネルなど14ヵ所ほどだったが、交通路計画が改定されるごとに箇所数は増大していった。

 この計画によって、ドーバープロジェクト以外にも、スウェーデンとデンマークはオーレスン連絡としてトンネルと橋で結ばれたし、ギリシャのペロポネソス半島に至るリヨン・アンテリオン橋も整備されたのであった。

 これらの整備理念を先述の書物で紹介したのだが、わが国の議論とあまりにも異なることに驚いたのだった。彼らはインフラ整備の評価にあたって、完全に独立した三つの視点(価値といってもいいものだ)から検討を加えることとしたのである。

 それは「そのプロジェクトはEU全体の経済成長に資するものなのか」というのがポイントの第一。さらに「そのプロジェクトはEU全体の環境改善に役立つものなのか」が第二。第三が「そのプロジェクトはEU内の人々の公平性の向上に寄与するものなのか」というのである。

 模式図を作成してみたが、これらの価値はお互いまったく独立しており、まず混じり合うことがない三次元の世界だ。これらの価値の相互の重みをどう調整するかは結構難しいと考えるが、インフラ整備が追求すべき価値は一つではないという点が重要だ。

 わが国のプロジェクト評価は、従来「当該箇所の整備による便益がコストを上回るかどうか」という一軸のみしかなく、これも図に示すと変数がたった一つの「異なる価値がまったく追求されていない」もので、一次元の世界である。

 わかりやすい事例に、いま整備が急ピッチで進んでいる三陸沿岸での高規格道路がある。この三陸縦貫道路は最初の完成が35年も前だったにもかかわらず、東日本大震災当時には1/2しか整備されていなかった。それは、区間ごとで見ると交通量が少なく、建設費に見合う便益が足りないと判断してきたからである。

 しかし、この評価方法では東北地方の中央部を走る東北縦貫道路を補完するネットワークとして三陸縦貫道路がもつ「東北地方と首都圏・関東地方との連結性強化」つまりリダンダンシーの強化が評価に入っていない。全体としてみると存在する価値や効用が、区間ごとの評価では見えてこないためにまるで評価の対象としてカウントされなかったのだ。

 東京〜青森間を高規格道路で結ぶ方法は、バックをしない前提で現在(2015/6)52通りだが、三陸縦貫道路や日本海沿岸道路などが完成すると、それは1万4200通りにもなる。これは、東北全体と首都東京都との連結がまず何があっても途切れなくなることを意味しているが、災害頻発国であるにもかかわらず、これを追求すべき価値としてこなかったのだ。

 EUの三軸評価に戻りたい。第一の評価はプロジェクト自体の経済性を問うているのではないことに留意したい。道路でいえばネットワーク全体が「EU全体の経済成長に資するかどうか」を問うているのであって、区間ごとのB/Cを問題にしているのではない。

 第二の環境にしても、たとえば幹線道路ができると周辺の環境問題を惹起することはあるにしても、広域的な移動の効率性の向上や渋滞の解消などにより、「全体としての環境は改善される」ことは多いものだ。EUはこれを問うているのである。

 わが国のように評価軸が一軸しかなければ、結局議論は論理的にも「行き過ぎか、生ぬるいか」という議論にしかなりようがない。かつて、池田勇人政権が高度経済成長を目指し所得倍増を掲げたとき、当時の社会党から出た議論は「それでは経済成長が行き過ぎる」というものでしかなかった記憶が鮮明だ。

 経済成長とは異なる「価値の提出」ができなかったのだ。それは今日でも同じことで、「アベノミクスは失敗した」というならアベノミクスに代わる政策の提案や異なる価値とその評価方法の提出がなければ、そもそも「議論の体をなさない」のである。