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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

おせっかいなヨーロッパ人

掲載日時:2016/06/07

国土政策研究所長 大石 久和

 表題は、本コラムに時々登場する哲学者の中島義道氏の『『思いやり』という暴力』(PHP文庫)のなかの小見出しである。「ヨーロッパ人のルール観や規範意識は、私人が互いに監視し合い注意し合うという文化」から来ているという。

 ここで紹介されているのは、赤信号で横断歩道を渡ろうとすると、横にいる男が「渡るな」と太い腕をだしたり、禁煙席でたばこを吸っていると、向こうから男がやってきてテーブルを叩いて「禁煙だ」と注意したり、妻に大きな鞄を持たせ自分が小さな鞄を持って歩いていると、お婆さんが「女性に重い荷物を持たせるとは何事か」と叱る、といった他人の行為への干渉的な話である。

 中島氏はこの著書の中で、鯖田豊之氏の「ヨーロッパの社会意識の強烈さは、一口にいえば、他人が自分と同じでないことに我慢できない、一種の『おせっかい精神』である。自己や自己の家族以外のものに関心がありすぎるのである。」との考えを紹介している。筆者もかつてウィーンの街中で、歩道と自転車レーンをラインで区切った自歩道で自転車レーン側にたまたま踏み出して歩いていたとき、自転車で通りかかった人から「ここは自転車レーンだ」と叱られた経験がある。

 日本でも同様の箇所はたくさんあり、自転車レーンにはみ出て歩くこともよくあるが、自転車に乗っている人から注意された経験は皆無である。もっとも、ヨーロッパとは違って車道に近い自転車レーンは、それに面したマンションの住民の自転車置き場などになっており、自転車が自転車レーンをほとんど走れないという実態が多い。(このようにわが国は、ルール違反者に対してきわめて寛大で温情的なのだ。)

 おせっかい文化のヨーロッパ(といってもドイツ人に著しい性向だと思うが)では、こんなところに自転車を放置的に置くことなどできないに違いない。なぜなら先の例のように、誰かにすぐにきつく注意されるからである。

 筆者の友人がドイツに留学していたときの思い出を恐ろしい経験をしたかのように語ったことがある。彼の滞在時にはドイツではすでに複雑なゴミの分別収集が始まっていたが、その友人がゴミを捨てようとすると隣かどこかのおばさんが物陰から彼をじっと見ていたというのである。きちっと分別するか否かを監視していたように感じたと彼は言うのだ。まるで旧東ドイツの秘密警察シュタージの活動を聞くような話だ。そもそもシュタージを生むような素地がこの国にはあるのだと感じられるのである。基本的に相互監視社会なのだ。

 この他人に干渉的な社会は、ルールの制定とその遵守を誓い合った構成員からなる社会を作らなければ、閉じ込んだ狭い空間である都市城壁のなかでの安全な暮らしを長期間維持できなったことから来ているに違いない。秩序維持のためには「あいつはルールを破っているぞ」と平気で密告をする「お互いのウチにずけずけと入り込む社会」なのである。

 実にイヤな社会のように思えるのだが物事には二面性があるものだ。これも別の友人の話だが、彼は子どもが小さい頃、北欧の国に留学していた。乳母車を押して散歩したり電車に乗ったりしたのだが、そのとき彼の経験では乳母車を階段上に運んだり、電車の乗り降りの際に手を貸してくれたりするなどの「手伝い者」が必ずと言っていいほど登場して手助けしてくれたというのである。

 容易に他人の中に入り込む社会は、このように同時にお互い助け合う社会でもある。それは多くの人の経験談でも明らかなのだが、それは一体どこから来ているのかはまだまだ研究の余地があるけれども、「落伍者を出さない社会」という精神があるからではないか。

 なぜ落伍者が出てはいけないのかというと、彼らが「頻発する紛争の経験民族」であり、それもいったん紛争が生じると無残な大量虐殺が発生してきた歴史があるからだなのだ。つまり戦力の維持が基本精神にあるからだと考えるのがわかりやすい。落伍者がいる部隊は戦力を大きく毀損する。これが背景なのではないか。

 乳母車の運搬に苦戦するお母さんを見ても滅多に手伝おうとはしないわれわれ。目の不自由な人が道路の段差で苦戦していてもほとんど手を貸そうとはしないわれわれ。中島義道氏は「ルール違反者に対して寛大で温情的であるわが国民は、他人の苦境を見て見ぬふりをする国民でもあり、個人と個人のコミュニケーションをほぼゼロに留めておく国民でもある。」と言うのである。われわれは仲間以外の他人には無関心なのだ。

 そのわかりやすい証拠が点字ブロックの存在である。わが国の主要な駅などの交通結節点や幹線道路には点字ブロックがギッシリと敷き詰められ、目の不自由な人の移動を助けている。ところがヨーロッパやアメリカなどの先進国を訪れても、このような点字ブロックは駅にも道路にも皆無と言っていいほど敷かれていない。

 中島氏は「ささえあい」が個人的レベルのものが主となる社会と、「お上」から「ささえあい」が降りてくる社会との違いがあるという。確かに点字ブロックは公共が提供するサービスだ。「私は助けないからあなたは点字ブロックを使って自分で行きなさい」という精神が、ありとあらゆる場所でのブロックの敷設をもたらしている。そして「私(個人)が助けない分、公共(=行政)が責任を持って支援しなさい」ということなのだ。

 したがって何かの事情で点字ブロックが何メートルか欠けていると、「目の不自由な人に冷淡な行政の怠慢」との投書が紙面を埋めることになるのである。

 顔見知りの仲間に強烈な愛情を持ち、そのなかでの人間関係の維持に異常なほどの情熱を注いできたわれわれは、仲間以外の人間はほとんど関心外の存在なのである。したがって、たまたま同じ電車の車両に居合わせたとか、同じ飛行機に乗り合わせたというだけの日本人は、機能的に行動するという有機的な人間関係をまったく作ることができない。

 9.11のハイジャック犯と戦ったユナイテッド93便と、たった一人の包丁男のハイジャックで墜落しかかった全日空61便(1999年)という違いが、これを端的に証明している。