• JICEについて
  • 調査報告・研究成果
  • 助成・表彰・審査制度
  • 技術資料・ソフトウェア
  • 国土を知る

技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

1995年の地方分権

掲載日時:2016/05/13

国土政策研究所長 大石 久和

 かつて紹介したことがあるが、中谷巌氏は『資本主義以後の世界』(徳間書店2012年1月)のなかで、「失われた20年」の間に失ったものとして、中央官庁の官僚に対する評価の変化にふれ、「日本の国民もつい20〜30年前までは官僚を尊敬し信頼していた。『政治家が少々頼りなくても、あの人たちに任せておけば大丈夫だ』という安心感があった。ところが、今日、日本人の官僚に対する心情は大きく揺らいでいる。彼らは政治家や業界と手を組み、自らの利益を図っている。天下りはけしからん、彼らが構造改革の障害になっている……。明治以来の日本を支えてきた官僚に対する日本国民の尊敬の念がなぜこうも崩れてしまったのであろうか。それは、おそらくは意図的な『官僚つぶし』にわれわれがうかうかと乗せられてしまったからではないか。」と述べている。

 中谷氏は、アメリカが構造改革を要求してきたとき、一番手強い抵抗勢力として官僚群をとらえ、そのころから突然、官僚バッシングが始まったというのである。

 この結果、以前に示したように世界のなかで人口あたり公務員の数も極端に少なく、公務部門も小さいにもかかわらず官僚攻撃が続き、給与、退職金などは削減され、民間での再就職も厳しい規制が敷かれるようになった。こうしてアンカウンタブルな要素である新たに公務員になる人材の資質や、現職の志気、挑戦心、意欲を大いに毀損していったのだが、数字的にカウントできないこれらの事柄は皆知らぬ顔を決め込んだままとなっている。

 わが国の転換点となった1995年の村山内閣時代に「地方分権推進法」が成立した。これ以降、地方分権はこの国の議論を支配してきた。国から地方へというスローガンは、この国が抱えている万病に魔法のように効く薬として喧伝され続けてきた。

 民主党政権時代には、「地方主権」なる言葉まで使われ、この国の政治はSovereignty概念が理解できていないのではないかと世界から疑われることとなった。

 Sovereigntyは750万人〜1000万人もの犠牲を伴った「30年戦争」の結果、史上初めて多国間条約として結ばれたWestphalia講和条約において盛り込まれた概念で、「主権」は国家の構成要件として「国土・国民」と並ぶ三要素の一つであった。それを「地方」とつなぎ合わせるなど、歴史も「主権概念」も何もわかっていないことの証明でしかない。

 東日本大震災から5年目となる2016年3月11日、朝日新聞はこれからの5年間の「復興・創生期間」について、「その間、国の権限も財源も県へ、県のものは市町村に渡すべきだ。住民の知恵と工夫で暮らしを再生してはじめて自立できる。」と主張した。

 しかし、この主張は基本的な認識を誤っているところから始まっている。「議論したり決定したりする容器は小さい方がいい」などということが一般論として成り立つはずがない。むしろ「身近な事柄を身近なところで議論すれば、利害対立が先鋭化する」のはあたり前の事実なのだ。

 かつての経験を紹介すると、ある県で事業の新規採択を要求枠以上に国に要望していたが、結果非採択となった。その箇所を強く推していた県会議員に県は、「先生が言われるように、この箇所は優先採択すべきなのに、"地方の実情を知らない"○○省が非採択としました。県としては頑張ったのですが」と説明したのである。

 実はこのような話はよくあることで、県は国とは了解しているのに、対外的には国を悪者として説明し話をまとめるのである。県だけの判断ですべてが決まるとなると、A県議の顔は立つがB県議の顔は丸つぶれとなり、その後の県政の運営に大きな齟齬をきたすいうことはよくある話なのだ。

 県から市町村に判断を移せば、対立はもっと凄惨な様相を帯びることは、"実務をやった"人間には容易にわかることなのである。決定権者が誰かであることがわかるくらいに身近であればあるほど、「その事業で隣が得をするのに、何で私が黙って引っ込んでいなければならないのか。」と行った声が噴出して、収拾がつかないことになるのだ。

 こうした実情を想像できない実務経験のない人が、「国から県や市町村に移管すれば、地方の実情が反映できるのだ」と無邪気にも早とちりするのである。

 さらにこの朝日の主張にはもう一つの認識間違いがある。ある市町村の今後のあり方は、他の市町村の動向を十分にふまえ、その上で特徴作りをしなければよいものにはならず、下手をすると金太郎飴となる。市町村職員は他の市町村についてほとんど関心も知識もない。しかし、「他を知らなければ自己は規定できない」のは絶対の真理なのだ。この町の将来を考えるためには、町のなかばかりを眺めていては答えは出ない。

 さらに、この朝日の主張が成立するためには議会が機能しなければならないが、議会の実態を知ったうえで主張しているのかはなはだ疑問だ。

 2016年2月23日、山梨県議会の最終日に2016年度予算が廃案となった。議長人事をめぐる混乱から議長が不信任となったからだという。身近なところでのいざこざが予算を廃案にするという重大珍事を招来させてしまったのである。また、4月3日の河北新報は宮城県村田町の町長交代により、町道整備が混乱し中途半端になっていると報道した。

 「東洋経済」(2016年3月19日)は、高齢化する地方議会の苦悩をコラムに掲載した。「さまざまな民意を反映させるために多種多様な人たちで構成される」べき議会が、高齢化してその主旨を反映できていないというのだ。全国の町村議会は、高齢化が進んでいて1万1161人中72%が60歳以上、平均年齢は62.7歳に達するという。町村議会のなかには、半数が75歳以上のところもあるという。そして、東洋経済は、「議員の高齢化と固定化、そして議会の質の悪化はワンセットの現象と言える。」という。

 また、市長や町長からは、一生懸命職員が企画した提案が議会の力関係を背景とした対立から議会に簡単に棄却されて残念だったという話もよく聞く。

 権限と財源をここに移せばうまくいくというが、そもそも市町村に県からの業務を引き受けるほど人材的余裕があるのだろうか。