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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

直線の国境線は誰が引いたのか

掲載日時:2016/02/02

国土政策研究所長 大石 久和

 

 中東や北アフリカからのヨーロッパへの難民の移動が止まらない。EU諸国が若干扉を緩めたら一挙に殺到したという感じである。難民の多くがイスラム教徒であることから文化的な摩擦を懸念する声もあり、最近のフランスの大きなテロ事件以来、ヨーロッパ諸国には宗教的な緊張が高まっている。

 日本は傍観しているだけでいいのかとか、またお金だけなのかとか、イラクのクウェート侵攻時の悪夢を想起する声もあるが、混乱が続く中東情勢の大本は何なのかについて、歴史的な経緯を見ておく必要があるだろう。

 イギリス首相を務め辣腕をふるったサッチャー氏は、1988年に「西洋人が世界の多くの土地を植民地化したのは、すばらしい勇気と才覚の物語でした」と西洋による植民地支配を肯定する発言をした。しかしもしそうなら、かつて西洋人が支配した地域が、なぜこのような混乱に陥って出口すら見出せない状況になっているのだろう。

 アフリカや中東地域の国境線は、地図を見てすぐ気がつくように、長い直線がきわめて多い。人々が自然に暮らして形成された集落や民族の境界が直線になることなどまず考えられない。陸地では湖・砂漠・山・川などの自然が集落の境界を形成するから、直線の境界は政治的な妥協の産物に他ならない。

 アフリカでの直線の国境線は、エジプトとリビア、エジプトとスーダン、リビアとチャド、アルジェリアとニジェール、アルジェリアとマリ・モーリタニア、マリとモーリタニア、ナミビアとボツワナ、タンザニアとケニア、アンゴラとナミビア、エチオピアとソマリアとの間に、10本も引かれている。

 こうした国境線が引かれたのは1885年のベルリン会議以降に、「列強によるアフリカ分割」が行われた際の支配地の境界画定が、列強各国の利害調整の産物だったからである。実際1900年には、リベリアとエチオピアを除くアフリカのすべての地域が列強によって分割支配されたのであった。

 アフリカ分割に参加して利益を求めた国は、イギリス、フランス、ドイッ、イタリア、スペイン、ポルトガル、ベルギーの各国で、現在のEUの主要国メンバーである。

 中東地域にもよく似た事情から幾つもの直線の国境線がある。列挙してみると、イエメンとオマーン・サウジアラビア、サウジアラビアとイラク、シリアとイラク・ヨルダン、アラブ首長国連邦とオマーン・サウジアラビアという状況だ。

 現在の紛争中心地とでもいうべきシリア周辺地域での大国のエゴは凄まじいものだった。オスマン帝国からの独立を望むアラブに対して、イギリスは支援を約束したにもかかわらず、裏でフランスとオスマン帝国打倒後のアラブ分割について秘密協定(サイクス・ピコ協定)を結んだ。

 独立を目指してオスマン打倒に協力したアラブを裏切り、レバノン・シリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの統治領としたのだった。シリア地域で直線の国境線によって国々が成立しているのは、イギリスとフランスがアラブ人をだまして行った妥協と秘密談合の象徴なのである。

 当然のことだが直線の国境線は部族を分断する。植民地支配の要諦は支配地域の人々の分割・分断による統治であり、宗教や民族、習俗といった違いを支配者が煽って対立させ、支配に対する反発エネルギーを内部摩擦に変えてしまうことである。したがって支配者にとってわかりやすい直線の境界は地域分断をもたらすことでもあって好都合なのだ。

 インドやパキスタンなどで、現在でもヒンズー教とイスラム教の人々が厳しく対峙することが多いのは、イギリスが長年月に渡って両者の対立を煽り、内部対立を支配の道具としてきたからである。何という卑劣な支配を続けてきたのだろうと慨嘆せざるを得ない。

 中東イスラム地域には、キリスト教軍団が十字軍という名で、約200年にわたって八回(九回との説もある)も軍事介入してきた。エルサレムには死体がうずたかく積み上げられ、それを踏みつけ乗り越えなければ前に進めなかったという従軍者の記録もある。

 アメリカ人のマシュー・ホワイト氏は、十字軍による紛争死は300万人にもなるという(『殺戮の世界史』早川書房)。ヨーロッパはこのように中東やアフリカに干渉してきた。

 1299年〜1922年にわたって存在したオスマン帝国は、アフリカ北部から中東地域全般、およびバルカン半島からハンガリーに至る広大な領土を支配していた。

 このオスマン帝国末期に、帝国主義化したヨーロッパ諸国やロシアが襲いかかり、最終的にはオスマン帝国は崩壊してアナトリア地域にのみ押し込められ、現在のトルコ共和国となった。

 十字軍のアンチテーゼとなったオスマン帝国の長期にわたった広域支配が、アラブに対するイギリスの三枚舌ともいわれる第一次世界大戦での中東外交政策を平然ととらせることになったのではないかと考えている。リベンジ感覚だったのだ。

 アラブ人は小さい地域しか得ることができないうえに、フランスの影響下に置かれることになったことで、イギリスへの不信を募らせたのである。

 ところで、最近のエジプトやリビアなどでの独裁政権崩壊は、「アラブの春」として民主化運動のように言われたが、実際は陰で過激派が扇動していたとも言われる。再び独裁制に戻りつつある国もあるようだが、こうした混乱の根源にはヨーロッパ諸国による分割統治に加え、統治の効率化のために地域や宗教、民族などの違いばかりを強調して対立を煽ってきた長年の分断政策が影響しているに違いない。

 波打ち際にうつぶせになって死んでいた3歳児の写真がヨーロッパに流布して、EUの壁は難民たちに乗り越えられてしまった。今度は、EU内の各国の間に人の移動を阻止する壁が立てられるかが問題となっており、EU結成の理念が揺さぶられている。