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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

言葉の喪失・思考の喪失

掲載日時:2015/01/07

 以下は、聖書のなかでもきわめて重要な位置を占めている文章である。

初めに言葉があった。
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。
この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。
成ったもので言葉によらずに成ったものはひとつもなかった。
言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は、光を理解しなかった。

      ―――― (ヨハネ福音書)「聖書」 / 日本聖書協会2006年

 しかし、誤解を恐れず割り切って言えば、この文章は日本人には理解不可能だと思われる。言葉にこのような神聖な感覚も抱いていないし、このような力も認めてはいない。それは、われわれの言葉が論理・命令を組み立てるために磨かれてきたのではなく、情緒の「微妙な表現と伝達」を第一義にしてきたためである。それにしても、特に近年、言葉の劣化が著しく、たとえば「綸言汗の如し」という言葉は死語になって久しい。

 言葉でしか考えや感情は正確には伝わらない。言葉を用いてしか人は考えることができないのだが、その言葉が、これほど壊れた時代があっただろうか。

 アメリカ大統領の演説を聴いてわが国の首相の発言と比較し、真の政治家の言葉とはかくあるべきだと感じたとの、同時通訳者でもある外語大学の教授の発言があった。しかし、この教授はそれを嘆くのなら、東京メトロの放送をまず嘆くべきなのだ。政治からの言葉の喪失は、この国からの言葉の喪失の象徴だからである。

 何度も紹介したように、東京メトロ(いろんな電車の中でも特にひどい)の「順序よく乗れ」「前の人に続いて降りろ」「乗ったら順に奥に詰めろ」などの幼稚園の園児向きの言葉を、大の大人が毎日浴びせかけられて何の非難も出ない国なのだ。

 少し付言的になるが、この電車では毎日の交通混雑の結果生じている常態的な運行の遅れについて、「電車が遅れて申し訳ありません」と放送することがある。「申し訳」とは、自分のとった行動について、その理由を相手に説明する言葉である。乗客が多すぎて乗り降りに時間がかかったり、乗客が発車ギリギリに飛び込んできてドアを何度も開け閉めさせられたり、電車が停車してからのんびり立ち上がったりする乗客がモタモタと降りるから、少しずつの遅れが積分されて何分もの遅れが生じてしまったのだ。

 運行責任など生じようのない遅れに対して、「自分の行動のために起こったことに対する弁解のしようのない気持ち」を表すなど正気の沙汰とも思えない。ほとんどまじめに放送する気などなく、「とにかく謝っておけ」ということなのだ。東京メトロ(だけでもないが)は、日本語破壊的な用語使いを何とかしなければならないと考えないのだろうか。

 問題なのは、こうした話し言葉だけではない。用語使いも、随分いい加減だ。たとえば地方分権の議論に、「三位一体の改革」という表現を用いる無神経さである。

 唯一絶対の神の存在だけを信じる一神教の世界において、キリストを神と信じる人々が、ユダヤ教などからの厳しい指摘に対して、苦心惨憺の思考によってたどり着いたのが、「三位一体(トリニティ)」という概念で、父と子と聖霊はまとまって一体なのだとする考えなのである。この信者にとってはきわめて重要で神聖な宗教用語を、この表現への到達までの苦労に考えを巡らせることもなく、国と地方の関係改革に使うという安易さなのだ。

 「地域主権」とか「地方主権」という用語使いも似たようなものである。ドイツを主戦場として戦われ、1648年に終結した「三十年戦争」の結果、最初の多国間条約となったウェストファリア条約が結ばれた。ここで初めて「主権(sovereignty)」概念が、それぞれの国家に属する最高独立性の権限を意味して登場した。それが、他国の意思に左右されず、自国民の意思で人と国土を統治する論理として定着していったのである。

 この戦争は、最後の宗教戦争ともいわれる一面もあることから、大量の殺戮をともなったことでも有名である。マッシュー・ホワイト氏によれば750万人の死亡となっているが、1000万人を超えていたとの説もある。ドイツの近代化の遅れはこの人口毀損に起因するところが大きいと考えるが、いずれにせよ、これだけの犠牲を払って手に入れた国家概念が「主権国家」だったことは忘れてはならないことなのだ。

 地方は国家から離れられるはずもない。国民の利益は、基本的に国家を単位として存在し得るのである。その地方と国の関係を論ずるのに、まるで国家から独立しているかのような「主権」などという用語を用いるのは、不的確・不適切と断定せざるを得ない。

 安易に地域主権などといえば、主権という言葉の背景と重みを日本の政治は理解できていないと世界に発信しているようなものなのだ。「主権」「領土」「国民」は国家の三要素といわれる。尖閣や竹島は、「日本」の領土であることが第一義なのであって、沖縄か、島根かは国内の行政手法の問題なのである。国家の三要素という言葉はあり得ても、地方公共団体の三要素としてこの言葉が使われることなどあり得ない。地方公共団体は、道州制議論が盛んなように国の「便宜的な地域区分」に過ぎない。それが主権を持ったり、領土を占有するなどということがあるはずがない。

 この国から言葉が消えていっている。「国民のお暮らし」などという国民を馬鹿にしたとしか言いようのない言葉も発せられた。「国際政治学者」などという無意味な肩書きで語る不思議な評論家もいる。言葉が熟考を経て発せられていないのだが、それは言葉を用いた深い思考がないということなのだ。絶対に忘れてはならないのは、人は用いる言葉のレベルでしか考えられないということなのである。