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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

リスク学

掲載日時:2006/01/01

国士技術研究センター理事長
大石 久和


 海外旅行などで、この人は日本人だと認識されることは、金持ちがいると思われることであり、狙われやすくなるといわれる。最近ではこの国もずいぶん物騒になってきたが、それでも相対的な比較で見れば安全な国であり、それであるがゆえに物の持ち方も、人前での財布の開け方も、よその国の人に比べてずいぶん無防備だといわれる。
だから海外ではあまり日本人ですよ、と強調して歩かない方がいい。また金持ち日本人のカバンですよと認識されない方がいい。にもかかわらず、面白い現象があってわれわれはスーツケースにバンドを巻くのである。こんなことをするのはほとんど日本人だけで、だからバンドを巻くことは私は日本人ですよ、と強調することになるのにそうするのである。万が一、カギが壊れても中身が散乱しないようにという用心からである。旅行社も社としての保身からバンド巻を推奨していたりしている。
問題はバンドを巻いているがゆえに起こる、輸送中に何かに引っかかってしまう危険だとか、日本人のカバンであることがわかってしまう危険だとかと、バンドを巻くことで防ごうとしている危険とがつり合っているのかということである。海外旅行用のスーツケースは、多少乱暴に扱われても簡単にあいてしまうことはない、というのは製品の命といってもいいものである。
現にバゲッジクレイムに積み込まれるところをごらんになった方も多いと思うが、投げ飛ばしたりしてずいぶん乱暴に取り扱われている。私のスーツケースも最初の旅行で大きくへこまされ、航空会社に修理してもらったこともある。そのように取り扱われることを前提につくられ、売られているのである。バンドを巻いておいた方がいいようなものは、そもそも製品価値がないものといっていいくらいなのである。
それでもしないよりした方が安全と考える人が多いということなのだが、それは引っかかり危険や日本人宣伝効果などとの「リスクの比較」の問題である。また、一時ダイオキシン騒動があったとき、冬の風物詩である落ち葉焚きや、神社のお札などを燃やすどんど焼きまで中止になったところがある。ダイオキシンはでるよりでない方がいいということだったのだが、要はバンドの効果と同様の「効果測定」の問題でもあったのである。体に悪いものがいささかでも入っていれば飲めない、食えないとなれば「何も飲めない」「何も食えない」ことになり、衰弱や餓死というより大きなリスクを背負うのである。
表題は中西準子氏が、一昨年上梓した日本評論社の本のタイトルである『環境リスク学』を参考にしている。不安の海の羅針盤と副題する本書は、専門的な事項も多いにもかかわらず、的確な指摘と歯切れのいい表現で読みやすく、各種の書評に紹介されるなど、この年の話題を呼んだ一冊であった。このなかで、中西氏はダイオキシン、環境ホルモンなどの環境問題を扱い、それをリスク学と認識して取り扱うべきことを強調しているのであるが、その一章に「BSEと全頭検査」にふれている。人がクロイツフェルト・ヤコブ病に感染しないためのリスク管理について、リスクに関係する因子として、牛肉の摂取量・牛のBSE感染率・危険部位除去後の異常プリオン残留率・検査頻度・検査の見落とし率をあげ、全頭検査の意味を問うている。ヤコブ病に感染する人を100年に1人という目標をたて、100年間の金頭検査費用を2000億円と仮定すると、0.01人の命を救うために2000億円をかけることになって、全頭検査によるリスク削減の経済効率はきわめて低いと結論している。いくつもの仮定が含まれているし、異論も多いかもしれないが、中西氏は、科学的評価リスク・社会の意志決定リスク・国民の不安としてのリスクと、リスクを三つに分類し、あおることによって不安としてのリスクを膨張させると、非常に大きな無駄を生じて「まさに亡国の道を歩む」と警告している。つまりダイオキシンについていえば、大規模焼却炉への横暴ともいえる誘導が許されたのは、どんど焼きまで止めてしまうほどの「ダイオキシンが危ない」とのキャンペーンが功を奏したからだというのである。ダイオキシンは過去の集積が問題なのであり、野菜というより魚の摂取が問題だというのにこのような焼却炉への不安の拡大へのあおりがあって、科学的評価としてはいかがかという運動に走ってしまったのである。
スーツケースにバンドを巻かないと気が済まないわれわれ。ダイオキシンだと騒げば、伝統のどんど焼きを止めてしまうわれわれ。膨大な費用をかけても牛の全頭検査をしないと安心できないわれわれ。
われわれはそういう思考性癖を持つのだと自覚したいのである。「気が済まない」という言葉を使ったが、この表現は日本独特で、ほとんど翻訳不可能である。相手の気持ちを慮るがゆえに使ってみたり、潔癖性の表れとして使ってみたり、使い方はいろいろであるが、いささかでも可能性があればイヤなのである。われわれとは、情的判断を理的判断に常に優先させる、そういう民だと知らなければならないのである。