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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

自己決定の呪縛

掲載日時:2014/01/07
 最近、本欄に「われわれは個人として立てるのか」と題する小論を載せたが、現実には、逆に「個人として立てないのに立つことを自ら強要している」風があり、「個人として立ちにくい」われわれが、自己決定を異常に尊重しているから不思議なのである。

 内田樹氏は、「下流志向」(講談社文庫)のなかで、「自己決定すること、それ自体『よいこと』であるという思想が社会の一部においては支配的なイデオロギーとして定着しつつある、これは事実です。」と述べているが、その通りだと実感する。

 自分で決めることに正しさの絶対性を持たせることが「正しい」とする一例は、長年続く地方分権議論だろう。地域のことは地域で決めるのが正しいとする、もはや一部の人々のイデオロギーとなっているというレベルにある議論だ。

 今回の東日本大震災からの復興に際しても、「復興の姿は、地域のことを最もよく知っている地域の人々が決める」との方針が政府からも示された。この論理の背景には、もちろん自己決定至上主義がある。

 しかし、地域のことを最も知っているのは確かに当該地域なのだが、「知っている」というのはどういうことかを考えなければならない。たとえば、地域に昔から伝わる史跡があったとしよう。その存在は確かに地域の人しか知らないかもしれない。だからこれを保存し将来に大切に伝えるにしても、それがもし復興計画や都市計画にかなりの支障になった場合にどうすればいいのか。撤去するのか、保存するのか。

 計画を多少犠牲にしてでも、この史跡を保存すると決めるためには、これが他地域にはないもので、その価値は広域的であるが故に復興シンボルとして存置する意味があるほどのものであるというような認識が地域で共有されなければならない。

 他所のことを知らず地域のことしか知らないのであれば、この史跡が他に比べて価値あるものかどうかわからない。地域のことを知っているとは、「虫瞰図的」に知っているというだけでは不十分で、地域を越えた俯瞰の目、つまり「鳥瞰図」が不可欠なのだ。

 したがって、前政権で示された先の政府方針は正しいとは言えない。おまけに市町村には地域計画や都市計画の専門家もほとんどいないし、自分の市町村を県域全体や国土全体のなかにおいて眺めた経験がある職員もほとんどいないからなおのことなのだ。

 地域をきめ細かく切り裂いて、その単位ごとに単位の有り様を決めるのが正しいというのは、このように論理的にも無理がある。哲学的表現になるが、他者の存在なくして自己を規定できるはずもないからである。

 また、この論理でいえば、「地域が小さくなればなるほど、地域が行う決定はすばらしい」ということが、前提とされていなければならない。国は決めるな、府県は決めるな、といって最小単位行政が決めるのがいいとなれば、それを切り裂いた集落の方がよりよい決定ができることになるとしなければ論理が成り立たないが、そんなことが言えるはずがない。地域が決定者であるにしても、俯瞰の視点の受け入れが要るのである。

 道州制議論についても同じことが言える。アメリカが連邦制をとっているのは、アメリカという国家が、そもそも少数の州の連合体からスタートし、その後各地が逐次加わって今日の姿になった歴史的経緯があるからで、そうでなければ、扱いにくい連邦制になどにならなかったと考える。

 ドイツにしても同じで、長い歴史のなかでは比較的最近まで小国乱立の地域であったことが効いているに違いない。やはり、フランスやイギリスのような国家の方が何かと便利に違いないのだ。そのフランスよりもかなり小さいわが国で、道州議論が長く続くのは、やはり、自己決定至上主義イデオロギーに支配されているからだと考える。

 ここで昭和3年の日本で初めての普通選挙での民政党と憲政会との対立点が、「地方分権か、緊縮財政か」であったことは、思い出すべき事実であると考える。85年前には、幕藩体制時代をなつかしむ記憶が残っていたのかもしれないが、現在の議論との類似性に驚かされるばかりである。

 JR北海道の事故や不祥事が絶えない。人口密度が九州よりはるかに少ないのに路線が多く、ほとんどの路線が赤字路線であるうえに、四国などと違い、雪氷対策に多額の費用を余儀なくされる北海道では経営の厳しさは尋常ではないものと思われる。

 もちろんこのことは事故や不祥事の免罪符になるはずもないが、その背景と理解すべき事柄だと考える。国鉄の民営化に際して北海道を独立させたということは、「青森、秋田を走る列車のための保線や雪氷対策には山手線の収入を回してもよいが、津軽海峡は越えてはならない」ということを決めたということでもあるのだ。

 当たり前のことだが、単位として閉じているのは国家であり、国家が唯一の有機的連合体なのである。わが国は、日本という国家で1つに閉じているのであって、地域連合が国家を作っているのではないのである。

 そう考えると、津軽海峡分界判断は正しかったのだろうかとの見方も必要なのではないか。四国分離はどうだろうか。大災害の際の最終保険機能は国家単位でしか果たせないことは、東日本大震災でも明らかとなった。関東・首都圏というドル箱路線を持つJR東日本は、この災害を受けても存続し得ている。

 しかし、同じ規模の地震が北海道や四国を襲ったときにそれぞれのJRは耐えられないから政府が税で支援せざるを得ないだろうが、税金の前にまず首都圏や東海道の鉄道収益を充てるべきだというのは間違いだといえるのか。

 最初の普通選挙のスローガンであった「地方分権」に夢を語る人が多いのは、戦後左翼に一貫して流れていた「国家を単位とするとこの国はまた間違えてしまう」という国家否定があったからだと考える。反省すべきことがまったく間違っているのだ。