• JICEについて
  • 調査報告・研究成果
  • 助成・表彰・審査制度
  • 技術資料・ソフトウェア
  • 国土を知る

技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

グローバルとブルーシート

掲載日時:2014/04/07
 「グローバリゼイション」が「国際化」に取って代わる言葉となった。国境を越えるヒト、モノ、カネの動きが活発となり、日本は経済大国としてその外に立つことはできなくなっているのは確かだ。しかし、世界という海面に日本をインクの一滴のように垂らしこみ、そこに溶け込んでしまえばグローバル化になるわけではないのも確かなのだ。

 1つには、「グローバル化」とは経済の側面が極端に強調された議論であり、いわば資本の論理にすぎないからである。アメリカなどの一部の大企業は、国境を越えて活動するどころか、国境を疎ましく感じて国家のくびきから逃れたいと考えている。利益に応じた正当な納税もせずケイマンなどに逃避しているし、「法人」として雇用などの市民責任もまっとうする気もなく、ただひたすらに利益拡大を求めて世界を漂い始めている。「グローバル化礼賛」は、彼らの行動を正当化する論理と表現なのだ。

 もう1つにはそれは実態に反しているからである。わが国のメディアは具体のデータや事例を示さずに主張を展開することがほとんどだ。たとえば、「わが国は貿易立国だ」とメディアは繰り返すが、輸出額をGDPで除した輸出依存度の各国比較を見ると、2011年には、日本は14.0%、韓国49.9%、中国26.0%となっている。日本とドイツは同じくらいだと思っている人も多いが、そのドイツは41.3%もの輸出依存度なのだ。

 この数字が紙面や画面に出ることはほとんどなく、「貿易立国だ」という台詞的な言葉だけを流し続け、「だから社会資本を整備して内需振興するよりPPPで輸出振興だ」とすり込むのに熱心になっている。多くの国はわが国以上の輸出依存度を持っており、世界の国々との比較で見てもわが国より輸出依存度が低いのは、アメリカなど数か国程度に過ぎないのである。メディアは、これを積極的に知らせようとしないから、ほとんどの国民は実態を知らないまま、「わが国は貿易立国なのだ」と得心している。

 さらに本質的な問題がある。日本や日本人を離れてはグローバルになどとはなり得ないということである。日本人としてのアイデンティティを喪失して世界人になるなどということはないのである。

 このことをメディアがよく理解できておらず、アンチ日本としか言いようのない一部のメディアでは、オリンピックなどでも「日の丸を振り回して日本選手だけを応援するのではなく世界の若者の活躍を応援しよう」などという、一見まともな、しかしトンデモ級の主張が掲載されたりすることがある。

 自国への愛情を経ずして地球や世界への愛は生まれない。それぞれの民族の自己へのこだわりが、自民族の成立を可能としている大きな容れ物としての世界と、そこに存在する他民族への関心・愛情・尊敬を育むのであって、その逆では決してあり得ない。

 もっと言えば、どの国の人々も自国人であることを否定して「地球人」や「世界人」になることはできない。それはこの「地球世界以外の人間存在がない」からである。こんなことは、存在論などという哲学用語を持ち出すまでもない「認識論のイロハ」だ。考えるまでもないことだが、「私」は「私以外」の存在があるから存在が可能なのだ。

 かつて第二次大戦の反省を踏まえて「世界連邦の建設」がよく喧伝された時代があった。この地球に「世界連邦以外」が存在する可能性はゼロだから、「世界連邦」は存在し得ないのである。仮にできたとしても、機能的に今の国連以上の存在になることは難しい。

 こう考えてくると、この時代は、われわれ日本人が自らのアイデンティティを見つめ、それを意識的に獲得しなければならない時代だということである。「日本や日本人であることを意識するな」は、真逆の、それも誤った理解の仕方なのである。

 とにかく、アイデンティティという言葉がこの国にはないのは、その概念すら必要でなかった民族だということだ。「自己の存在証明」など意識せずに生きてくることができた国柄なのは、「自分以外の他者」を意識せずに暮らすことができたということである。

 こういった背景を十分に考えもせず、「グローバル時代」を振り回すのは、アメリカで経済学を学んでアメリカ中心主義思考にはまった経済学者ぐらいのものなのだ。国境を越えて経済が回る時代であっても、日本を捨ててわれわれが立つ位置はどこにもないのは当然のことだ。それは、「資本主義は唯一無二のモデルで形作られるものではない。経済の繁栄と安定は、様々な領域と制度の組み合わせを通じて実現することが可能なものだ。国家はこれらの制度の組み合わせの中から自身の必要性や価値観に基づいて様々な選択をする。(ダニ・ロドリック/ハーバード大学教授)」(意訳)ものだからでもある。

 不思議な一例で考えてみよう。わが国では、事件や火事、災害などで大怪我をしたり死亡したりする事件が起きると残酷な現場の様子や死体が見えないように、「必ず」ブルーシートがテレビなどの視聴者の目線を遮る。あれだけの大災害で、猫の手を借りても間に合わないくらいの人手不足であったはずの東日本大震災の時でもそうだった。

 捜査員はシートを持っている時間があるなら「今急いでしなければならないこと」が山のようにあるだろうにと不思議で仕方がない。「裸足のゲン」という漫画の残酷場面には、「子供たちも目を背けることなく直視すべき」とこの漫画を擁護するメディアも、ブルーシートの手持ちには「シートを持つ暇があるならほかにやることがあるはずだ。人々に厳しい現場を見せよ」とはまったく言わず、シート囲いを積極的に支持している。

 数年前にノルウェーで野外での大量殺戮事件があった時には、ブルーシートなど一枚も登場しなかった。しかしわが国では、秋葉原の殺人事件でも現場を直視できたのは、ほんの一瞬だけで、すぐシートで囲まれてしまったのだ。

 われわれは、世界がどうであれ「残酷場面から目を背ける」主義を貫徹している。経済以外の価値観はそのままに保持して、経済や資本の分野だけは世界流にあわせ、グローバルに振る舞うことなどできるはずがないではないか。