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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

保護者のみとなります

掲載日時:2014/07/11
 最近、小学校の校長が覚醒剤を使用していたことが発覚し、大きな社会問題になった事件があった。学校は子どもへの影響を心配し、保護者を招いて事情と善後策を説明することになった。このとき、テレビに説明会場前の掲示板が映っていたのだが、この掲示板の文章が驚愕もののデタラメさだった。

 なんとそこには「(本日の説明会の対象は)保護者のみとなります」とあったのだ。説明会に参加できるのは保護者に限定し、メディアや部外者の参加を認めないという表示なのであるが、問題はその「なります」という日本語である。

 「なります」表現は、少なくとも2つの問題がある。

 ひとつは日本語として正しい使い方ではない「使用例が多い」ことである。事実かどうか確かめもしていないが、外資系のファストフード店などでは、客にできあがったものを届ける際には、たとえば注文がカレーなら「カレーライスになります」と言って運ぶように従業員を指導していると聞いたことがある。

 「お持ちしました」や「ご注文のカレーでございます」とかという言い方ではなく、一律に「なります」と言えと指導しておけば、従業員教育も簡単だという訳なのだろう。しかし、これは当然ながら正しい日本語使いではない。ところが、あるとき高級ホテルの中にある割烹で、「○○の焼き魚になります」と言って料理が運ばれ、のけぞりそうになったことがある。何の疑問も感じることなくこんな日本語を使ってしまう人が、高級店にも存在するほどに流布してしまっているのである。そもそもこのような店が、従業員の言葉使いを指導していないのは大問題なのだ。

 「成る」という言葉は、「ローマは一日にして成らず」と言うように、「完成する」と意味を持っている。また、「誰々の手に成る作品」という表現もあるように「制作する」との意味もある。だからといって、「カレーの製造が完成した」のだから「なります」と表現してもいいのだということにはならない。

 「完成」となったのだと頑張ってみても、その表現が現在形をとることなどあり得ない。ここからはもう漫画的な世界になるのだが、だったら「なりました」と言えばいいかというと、これは「何かがこれに変化しました」という言い回しだから、「何が」という問いが必ず付いてくる。これには答えられないから正解の表現ではないのである。

 なぜ、「お持ちいたしました」と言えないのだろうと不思議でならない。言葉はロから発していれば言葉なのではない。使い方が正しいことが何より大切なのだが、箸もペンも正しく持てない者が急増している時代に、なかなか理解されないことなのだろうか。

 しかし、この「なります」問題は、冒頭に掲げた小学校の「なります」用語よりはまだ罪が軽い。それほどに保護者説明会の「なります」は程度が低いのである。小学校の先生が教育者とも思えないレベルの用語しか使えないくらいだから、そのトップである校長が覚醒剤に手を出すなどというトンデモ級のバカげたことが起こるのである。

 ここには説明会を開催する主体の意思が示されていないことが何より問題なのである。マスコミなどが殺到する事件直後の状況から、まずは保護者によく説明しなければならないが、会場の混雑と混乱を避けるため、「学校側の意思として」参加者を保護者に限定したのに、なぜその意思や意図を明確に示す言葉を用いないのか。

 この掲示は「説明会参加は保護者限りといたします」でなければならない。誰が決めたわけでもなく、ただ何となく、このようになったわけではないのだ。「なります」などという主体性もない無責任極まりない言葉を使ってはならないのである。

 最近、自分が哲学者の中島義道氏になってしまったのかと思うことがある。彼と同じように最近の言語状況の情けなさに驚愕することばかりである。たとえば東京メトロなどでは電車が発車するとき、「発車となります」というまるで電車の運行が他人事であるかのような表現を用いることがよくある。電車の運行責任を負う側の駅員が、「発車いたします」と言えずにいる状況をなんと考えればいいのかと深く悩んでしまうのである。

 わが国の庭園では制作者が持っている明確な造園計画の意図を隠し、あたかも作為のない自然そのままの風景であるかのように見せている。ベルサイユ宮殿の庭に見られるようにヨーロッパなどでは、制作者の意思や意図をまるでこれでもかと言うように明確に示す造形を用いるが、われわれはそうはしない。

 ベルサイユの庭園の設計思想のような「俺が、俺が」は必ず他者との軋礫を惹起する。それを避けたければ、意思を示さず何事にも異議を唱えないことが肝要だ。こうした身を隠しきる生活態度を長い年月をかけて育ててきたのがわれわれ日本人だった。これは顔見知り範囲の仲間内の和を最優先してきたことからきていることは、国土学が教えるわれわれ小集落民のあり方だったのだが、それにしても物事には限度というものがある。

 このように社会の一部は、主体と意思を隠しきるところまで隠す方向に流れている。しかし一方では、個性の発露こそが人間の証だという風潮も強い。初見では読めもしない奇妙な文字列を用いてわが子に命名し、自分らしく育って欲しいなどと宣う若い父母が増えている。個性など名前が規定するものではないのに、戦後教育により「人は個性的であるべき」という脅迫に若い両親が苦しんでいる様子は気の毒なくらいである。

 個性とは責任を引き受ける主体になり得る能力のことを指すものだと考える。人と違ってさえいれば個性などと言うものでは決してないのである。

 無責任主義とでもいうべき「なります」の氾濫と、「バラバラの個人」に明確な責任範囲を規定したのではまるで力を発揮できず、「小集団への責任」でしか能力発揮ができない民族への「個性の強要」という並び立つはずもない状況がこの国を支配している。

 これは日本社会が「腸捻転」を起こしており存続の危機にあるということなのである。