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技術資料・ソフトウェア / JICEの部屋(コラム)

歴史の穴・御成敗式目

掲載日時:2014/12/02
 日本の歴史には、正規の歴史学の世界からは、なるほどと思えるような説明仮説が提出されていない「いくつもの穴が空いている」と述べたことがある。

 たとえば、法隆寺の中門は柱の数が奇数であり、そのため門の真ん中に通行の邪魔をするかのように柱があるが、万を超える寺があるわが国でもこのような事例は他に1つもない。しかし、これに対して納得できる説明仮説は歴史学からは提出されていない。

 ずいぶん昔に専門外の梅原猛氏がわかりやすい仮説を提案したが、法隆寺側の説明を否定した説だったこともあり、歴史学はまともに取り上げていないままとなっている。

 今回の穴は、有名な御成敗式目についてである。

 まず、身近な歴史書の説明を見てみよう。山川出版社の「詳説日本史研究」(2003年11月)は、これについて次のように記している。

 「このころ、法典としては朝廷の律令格式があったが、その内容を知る人はごく限られており、ほとんど空文化していた。武家社会においてその傾向はいっそう顕著で、武士たちはみずからが育んできた慣習や道徳を重んじて日常生活を営み、また紛争を処理する規範としていた。

 しかし、当時道理と呼ばれたそうした慣習や道徳は、種々の事情に基づいて長い年月を経て定着したものだけに、あるいは地域によって異なり、あるいは相互に矛盾して整合性を持たなかった。

 そのため武士の土地支配が発展して所領問題が全国各地で頻発するようになると、漠然と道理にしたがうというだけでは、紛争を解決することが困難になっていった。問題が武士と荘園領主との間におこった場合はとくに難しく、幕府は明確な判断の基準を定める必要に迫られた。」と記述して、「そこで泰時は武家の基本法典を定めた」という説明をしている。

 しかし、なぜそれが貞永元年(1232年)でなければならなかったのかや、なぜ土地をめぐる規定が多いのかについては、何の説明もない。

 ところで鎌倉幕府の成立については近年いろいろと説が語られている。

        1180年 頼朝が鎌倉に居を構えたとき
        1183年 頼朝の東国支配が朝廷から事実上の承認を受けたとき
        1185年 守護・地頭の任命権を獲得したとき
        1192年 頼朝が征夷大将軍に任じられたとき

 こう見てくると、1232年貞永元年は幕府の成立からずいぶんと時間が経っている。頼朝が鎌倉を本拠としてからでは50年も経っているし、1221年の後鳥羽上皇による承久の乱の勝利で執権政治が確立してからでも10年は経過している。なぜ、政治権力を確立した直後の最も力のあるときに、武家支配のための基本法典を制定しなかったのだろう。

 「詳説」は何も説明していないが、実は貞永の頃は飢饉が相次いだ時代であった。貞永の前の年号は寛喜であるが、この年号・寛喜は1228年(安貞2年)頃からの飢饉を忌み嫌って、安貞から1229年に改元されたものだった。

 ところが、寛喜と改元したにもかかわらず、1230年にも天候不順が続き、夏でも冬のような気温となったり、洪水、暴風雨などが各地で発生した。おまけにこの冬は暖冬となったから作付けにも影響した。

 こうして、「天下の人種三分の一失す」という日本史上最大級の大飢饉となったのが、今日「寛喜の飢饉」と言われるものなのである。京や鎌倉には流人があふれ、町中に死人が累々とする有様だったという公家の記録などが多く残っている。

 当然、御家人の年貢の取り立ては厳しくなって耕作人との争いは増えるし、土地の所有権や耕作権をめぐる紛争も頻発することになったのである。「武家の土地支配が進展して(だからあたかも自動的に)所領問題が頻発した」のではないのだ。この時期に土地に関する紛議が頻発するには大飢饉の発生という理由があったのである。

 ところが「詳説」には、不思議なことにこの人口の3分の1を毀損したのではないかと記録されている飢饉の記述がまったくないのである。泰時が天才である由縁は、この土地をめぐる紛議が多発して社会が騒然とすれば、土地中心の封建制時代にあってはやがて幕府が危うくなると見通したことなのだ。

 だからこそ、この時期に社会を統べるルールを制定しなければならなかったのである。そもそも武家の土地支配が進展することで所領問題が頻発するようでは、そんな政権は長続きするはずもない。「詳説」の理解は間違いなのだ。

 この飢饉を含む自然災害が頻発した時代を経たからこそ、鎌倉仏教と言われる新しい仏教思想が民衆に浸透していったのである。法然、一遍、道元、栄西、親鷲、日蓮などの活躍は、これらの飢饉・災害で苦しむ民衆救済の思想が生み出した必然だったのだが、「詳説」のような記述だけでは、これに対する気付きも生まれはしない。

 ところで、幕末・安政年間の大災害の頻発や疫病の流行は、民衆に武家の時代の終わりを告げていると感じさせたに違いないが、「日本史研究」はまったくふれていない。平安時代の貞観時代など日本の歴史には何度も災害集中期があったが、これについても日本歴史はほとんどふれようともしていない。

 あたかも、宮廷や幕府内での出来事だけで歴史が動いてきたかのような表面的な政治史しか述べていないといっても過言でないほどなのである。しかし、このおかげで日本史には、この御成敗式目や法隆寺以外にも、いくつもの穴が空いていて楽しみがつきないとも言える。

 これからも、歴史の穴探訪を楽しんで、歴史に親しみたいものである。