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JICEの部屋

主張と検証

国土技術研究センター理事長
大石 久和

 このコラムのはじめの頃に、「仮説と検証」と題したシリーズを何度か書いたことがある。政策提案は問題解決仮説として提出されるのは当然なのだが、それがあまりにも検証過程の考察を省略したままなされることが多く、検証を要求されることのないまま、時代のムードを反映した「目的化した政策」になっていることに対する警告だったのである。

 「ものが燃えるということはどういうことなのか、何が起こっているということなのか」「脚気には何が原因でかかってしまうのか」「光は波なのか、粒子なのか」というような再現実験が可能な自然科学の世界でも、これらの問題は長い年月をかけた仮説の提出と、その否定の繰り返しの歴史を持っていることを紹介した。

 そしてこれらの多くについて、今日では間違っているとされている仮説の方が、「真理」として理解されていた時代もあるとも説明した。

 ところが、たびたび判断を間違う人間の干渉が問題をきわめて複雑にしている社会現象や経済は、現象の発生メカニズムやその解決策の正しさの検証が自然科学よりも難しいにもかかわらず、政策の提言や議論のされ方が安易ともいえるほどのずさんさを抱えているのではないかとも示唆したのである。

 「改革なくして成長なし」というのは、どの現象をとらえて提出された仮説なのだろうか。「何をどのように改革すれば、どの部分がどれくらい成長するのか」、その正しさをどこでどのように証明されたから提案されているのだろうか。

 「国の出先機関の原則廃止」は、出先機関を廃止しなければ解くことができないどのような問題が存在しているのか。それは存在問題であるのか、方法問題であるのか。それはどのように証明されて提出された問題解決仮説なのだろうか。政策には必ず必然的にトレードオフといわれる負の効果が随伴するが、それはどのように防止でき、それは正の政策効果に比して必ず小さいことをどのようにして証明したのだろうか。

 このようなことを伝えたいために仮説と検証をシリーズ化したのだが、少し進めて考えてみたい。それは世に流布するいろんな主張をこのフィルターでみてみようという提案である。それは若者が考えるクセを身につけることにもなるのではないか。

 したがって、「改革なくして云々」も当然検証対象だが、たとえば「稼ぐ人はなぜ長財布を使うのか」といった表現をどうとらえればいいのかといったことである。これは、確かに長財布を使っている人が必ず稼いでいる人だとは言ってはいないのだが、傾向としてはこう言えなければこの主張は成立しない。

 しかし、これは実際に検証可能だろうか。まず、調査も不可能と言うべきだろう。少なくともあわてて長財布に変えて金持ちになろうなどと考える間違いだけはおかしたくない。

 こんなことは笑い話程度の事柄だが、「この教育法を3歳までに取り入れないと間に合わない」とか「3歳からでは間に合わない」と脅されて、子供の成長を何よりも願うお母さんたちが、法外な費用をそんな教育メソッドに使ってしまうということなら問題だ。

 これは検証されていない主張だし、まず証明できないものだからである。なぜそんなことが言えるかというと、たとえばこの教育法が難関大学に合格できるほどに知育に効果があることをセールスポイントにしているものだとしよう。それを証明するためには、3歳未満の多くの子供たちを、この教育メソッドで育った子供群Aとそうでない子供群Bに分けて追跡調査し、18歳児になったときの難関大学合格率を比較して、A群の子供たちの成績がB群の子供たちに比べて、統計上「優位な差」といえる程度に高くなければ、この教育メソッドが効果があったことにはならないからである。

 当たり前の話だが3歳未満の子供たちは18歳になるまでに各地に分散してしまい、大学合格者をこのメソッドを切り口にして再集合化することなどできるはずもない。また、この証明のためには長期にわたる観察が必要だが、それには膨大な費用がかかるし、誰もそんな費用はかけられない。したがって、この仮説が有効である保証はまずないのだ。

 このように、どのような検証がなされて出てきた仮説や主張なのかとほんの少しとどまって考えるだけでも、変な商法に引っかかることを防げる。「○○を飲めば長生きできる」というが、飲んだ人と飲まなかった人をどのように集め、どのように人生の最後までフォローして差を見い出したのだろうか。少し考えてもできるはずがないことがわかるが、「これで必ずやせる・必ず儲かる」など、このような事例は枚挙にいとまがない。

 主張には、主張の根拠に検証がなければならないのはいま見てきたとおりなのだが、政策的な提案には、人間がからむものが多くあらかじめ十分な検証ができないものがある。そのときには、その政策にいたる推論に客観性や合理性があるかが重要な決め手となる。

 たとえば、少子化問題を考えてみよう。(政策的に少子化問題を考えるのは、個人の自由への侵害であるとする意見もある。しかし、国家のあらゆる問題の根源であるから政策としてとらえるべきだとの意見もある。いまここでは後者に立っている。)これを考えるためには、少子化に至っている理由を合理的に探し出さなければならない。

 各般にわたる多くの理由が列挙できるが、その一つに、高学歴化して男性以上の能力を身につけた女性がせっかくのキャリアを生かせなくなる不安がある。実際、有名大企業でも、育児休業から戻ってからは責任あるポストにつけない事例が多い。これは広くとらえればこの国では「人材活用の多様化」がまったく不十分だという社会の構造問題でもあって、子育てを超える大きな解決仮説が必要となる問題でもある。

 ことあるごとに出産費用の無料化くらいしか問題解決仮説を出せないようでは、いつまで経っても正解にたどり着かないし、子育てという尊い人の行為を汚して人間存在の尊厳までも侵すことになっている。


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